若葉がそよぐ草原に、再びフォルクマールは立っていた。
あぁ、これは夢だ。そう真っ先に気づいた。
何故ならば、今居る場所は、このように緑鮮やかな草原が、目の前いっぱいに広がろう筈も無いから。
誰かが、草原の向こう側に佇んでいる。
目を凝らしてよく見てみると、緑騒ぐ草の海の真ん中に、華奢ななりの青いドレスを着た女性が立っていた。
そっと足を運び、近づいてみる。
不意に、その女性がこちらに振り返った。
「もう、私の事など、とうの昔に忘れてしまったかと思いました」
哀しそうな眼差しでこちらを見据えたその女性の姿は、どこか見覚えがあった。
深い海のような色の髪、どこまでも吸い込まれそうな紅い瞳。
そう、幼い頃かつていつも隣に佇んでいたその姿を、フォルクマールは記憶のどこかで確かに覚えていた。
フォルクマールが何か言おうとしたその時、女性が先に彼に語りかける。
「貴方が人としての真心を完全に忘れ去った時、私は消え去るでしょう。」
淡々と女性はそう告げた。
すると、それまで押し黙っていたフォルクマールも口を開き、今まで抱えてきた心のわだかまりを彼女に打ち明ける。
「ならば教えて頂きたい……真心とは、優しさとは一体、何なのでしょうか……
一時を凌ぐ為に、目の前の安易な感情に手を伸ばす事、それも優しさかもしれません。
しかし……遥か未来に望みを託すために、厳しい境遇に身を置き、耐え続け力をつけさせる事も、
真心、優しさとは言えないのですか?」
それまでの辛苦を訴えるかのように、彼は心の奥底にしまってきた思いを打ち明けた。
「貴方のやっている事は未来を見据えているかもしれません……しかしそれは、人の業としてはあまりにも惨い。
理想の為に、何をしてもいいかと問われれば、その答えは否と答えざるを得ないでしょう。
……貴方は今、周りの人々の嘆きに耳を傾けていますか? ……聞こえませんか?彼らの心の嘆きが?」
彼の訴えを真っ直ぐ受けとめ、その女性は尚も淡々と語りかけた。
それは、フォルクマールが今まで、正面から受け止めるのをためらってきた事だった。
「人の道から外れるのはもとより覚悟の上。 善なるものは、善なるもので護られるとは限らないのです。
人の善意だけでは、人は、世界は護られません。正しい者が正しい事を導ける世界ではないのです。
何故ならば、人は弱い……過ちを犯し、自らを護る為に相手を傷つける事もある。
強い秩序を作らねば、人の世から、争いはなくすことが出来ない……私はそう信じて、生きてきたのです。
この国を、世界を糺し、人々が安心できる世の中を作る為ならば、非道な判断を下す事でさえ、私はためらわないでしょう」
「例えその犠牲になるのが、貴方を信頼している人物でも、ですか?」
女性の紅い瞳が、きらりと鋭く光る。
フォルクマールの真意を問いかけるように、彼女は厳しく問い質す。
自分を信じてくれた人物を。
自分の手で、裏切る事になるかも知れない。
それは、恩を仇で返す事。人としての道を、踏み外す事。
そうまでして罪を重ね、自分は、己の願いを叶えたいのか……
彼女の強い問いかけに、一瞬の戸惑いが頭を掠める。
しかし同時に、ファルチェの涙を思い出す。
優しかったあまりに、騙され、蹴落とされ、憐れにも命を落としていった彼女のマスターたち。
彼らだけではない。幾多もの優しい人間たちが、この帝国で葬られていったのを、この目で見てきている。
ここは、優しい人の道理が通る様な、甘い世界ではない。
優しさが身を滅ぼすならば、私は優しさなんか持たない ―――
あの日、私は彼女の涙に誓ったではないか。
彼女の視線に、暫く黙してから、フォルクマールはゆっくりと瞳を上げて答えた。
「……決めたのです。私は、目指す理想の為ならば、進む道はどんな非道な事でも厭わないと。」
それは、決意に満ちた表情、躊躇を一切含まない返答だった。
「……分かりました。そこまでの覚悟があるならば、お進みなさい……
例えどんな非道な事であれ、自分を信じる心があれば、私は前に進む貴方を護るまで。
それが私の役目です」
それだけ呟くと、それ以上は尋ねようとはせず、青い髪の女性は再び瞳をそっと閉じる。
風が吹き、緑の草原をうねらせる。
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再びフォルクマールが目覚めた時、周囲の空気は凄まじい熱量を帯びていた。
白煙が立ち上り、舞い上がった塵や埃が辺りに充満している。地面は焼け焦げ、壁は大きく崩れ去っていた。
それまでの記憶を遡り、ようやく自分は爆発に巻き込まれたという事を思い出した。
自分の元を訪れたリツを説き伏せようとしていた矢先、彼の感情が魔力と共に暴発し、大爆発を起こしたのだった。
周囲をほぼ灰燼に帰す程の規模の爆発であったのにも関わらず、己を見返すと、傷一つ負っていない事に、少し驚く。
「あれだけの爆発だったのに……?」
ふと周囲を見渡すと、薄い水のヴェールが彼を包み込んでいた。
「水の、膜……?」
それは僅か数ミリのごく薄いものだった。
だが一見華奢に見えるそれは、熱や飛び散る破片や塵からずっと、彼を護っていたのだ。
淡い燐光を放ち、暫く彼の周囲を覆っていたかと思うと、やがてそれは消えていった。
夢のように消えていった、おぼろげな水の名残を見上げ、フォルクマールは1人黙して佇んでいた。
すると少し離れた所から、何かものを壊すような騒々しい物音がした。
すぐ傍に居たリリアンが、大きな鉄の剣でがれきを退けて、道を開けて彼の元へ駆けつけてきたのだ。
「フォルク、無事か?!」
近くまでやってきて彼の無事を確認すると、フォルクマールに外傷の一つもない事にリリアンはひどく驚いたのだった。
「あの爆発で……お前、どうやって身を守ったのだ?」
「それが……突然の事で、私も殆ど記憶が無いのです」
「はぁ、何だって?」
いつも理路整然としているフォルクマールの意外な答えに、リリアンは突拍子もない声を上げる。
「記憶がないとはお前らしくもないな……?
まぁ、今はそれはいい。 一体全体、何があったのだ?」
「件の実験の事で、リツがやってきたのです。実験の中止を私に進言しに。
その説得の最中、激昂した彼によって、魔力の暴発が起きたのです。それで、その爆発に巻き込まれました。」
そう説明したフォルクマールの答えに、リリアンは頭を抱えた。
「お前の所にもか……」
「も、とは……? 貴方にも何かあったのですか?」
リリアンが思わず溢した答えに、フォルクマールはすかさず聞き返す。
うっかり口が滑った事に顔を歪め、リリアンははぐらかそうとする。
「なんでもない。大したことではない」
「リリィ。貴方ならよくお分かりでしょう。ほんの僅かな情報が、状況を大きく左右することを。
……貴方の事情も察しますが、出来れば聞かせて頂けませんか」
フォルクマールは、言葉こそ感情的にはならなかったが、どこか有無を言わせない迫力を滲ませて尋ねた。
何かただ事でない事が、今ここで、そしてどこかでも起こっているに違いない。それを把握しなければ。
そう思う彼の緊迫感に観念し、リリアンは肩をすくませて打ち明ける。
「……実は私の所にも、実験中止を求める者がやってきたのだ。現状を把握していない愚か者だったから、門前払いしたがな」
「それは、もしやブリューゲルでは……?」
「そうだ……。あの愚か者は、この実験の重大さを理解していない。
いや、理解していたかもしれないが、それ以上に私情に流され、あの親子を実験から逃れさせようと画策していた。
そんな事をすれば、己の身が危うくなるのを承知の上でな。相変わらず、無謀な奴だ」
「彼らしいですね……」
初めて会った日も、万物に感謝を捧げるという、優しい考えを話してくれた、あの青年。
燃えるように真っ直ぐな眼差しをした、インペリアルトパーズのくせっ毛の青年。
あの優しく正義感熱い青年が、この帝国で謀殺されようとしている。
ユーリ・マロン親子を巻き込んだこの一件は、彼を陥れる罠だ。
フォルクマールは、そう確信した。
そしてその黒い思惑は、自分もきっと一線から退かせるように謀っているのだろう。
甘いことなど、言っていられない。
しかし、ユーリ軍佐やブリューゲルは、リリアンが昔から世話になっていた人物だと聞いている。
彼らを裏切る事になるかも知れない事に、彼女はどう思っているのか、今一度フォルクマールは尋ねる。
「リリィ、もしかしたら、事によっては彼らを見捨てざるを得ない可能性も……」
「……私は、家を継ぐと決めた時から、甘い感情は捨て去ろうと決めたのだ。
帝国がどういう所か、彼らも知らぬ訳ではあるまい。その上での身の振り方を誤ったまでだ……
私は、彼らに同情するような甘さはない。」
静かに彼女はそう告げる。
軍帽を目深に被る彼女の眼差しは張りつめるように鋭く、その覚悟を物語っていた。
「……失礼。貴方にとっては愚問でしたね……」
リリアンの覚悟を疑った事を、フォルクマールは詫びる。
「さて、今後どう向こうが動いてくるか……
リツがブリューゲルに感情移入している事を利用されました。私にも、反乱の意志ありと濡れ衣を着せてくるでしょうね」
「おそらくな。おまけにこれだけの爆発事故、お前が仕組んだと言ってくるだろう。」
「ですが、幸運な事に貴方が居合わせてくれた。口裏を合わせてくれますか、リリィ?」
「全く、仕方ないな……」
煙が立ち上る中、2人は司令部の将軍たちが現場検証にやって来るのを待つことにした。
「そういえば、肝心のリツはどこに行った?」
「分からないのです。気付いたら彼は姿を消していました。」
「逃げたのか……管理不足だな」
「彼だって1人の人間です。彼の意志を、私は縛る事はできません」
少し口調を強めて、フォルクマールはそう言ったのだった。
珍しく語尾を強めた彼の様子に、リリアンはため息をつく。
「あの少年に関しては、お前も大概に甘い……だからいいように利用されたのだろう。不甲斐ない。
お前ともあろう者が、何故そこまで彼に肩入れする? 手駒ならば、もっと思想まで管理すべきであろう。
だがそれをせず、敢えて自由を与える。 お前は一体、彼をどうしたいんだ?」
リリアンにそう尋ねられると、流石のフォルクマールも少し口をつぐむ。
同じ精霊使いである故に、感情移入している節は、確かにあった。
自身の野望の為に彼を利用しつつも、心のどこかでは、彼に自由になって欲しいという、
2つの葛藤を抱えているという事に、フォルクマール自身も自覚していない様子であった。
押し黙ってしまう彼の様子をみてリリアンは、ふぅ、と一息つく。
「……まぁいい。それを尋ねるのは、また別の機会としよう。
だが、あの少年に自由を許す限り、お前自身の首を絞めているという事を忘れるな」
「……肝に銘じておきましょう……」
あの少年は、自分が最後に残した、人としての善意なのかもしれない。
しかし、それが自分を窮地に陥らせている事を、フォルクマールは今一度自覚するのだった。
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続きが書けたよ! 今回はリリィ姉さんとフォルクの内面にスポットを当ててみました。
自らの野望の為に、見捨てなければならないものもある。彼らの心情が、今後を大きく左右します。