幻惑の魔法を操る、三日月の精霊から守護を受けた事は、フォルクマールにとってはとても好都合だった。

自分を貶めようと策略や話術を駆使してくる連中を、その洞察力で見抜き、逆に幻惑の魔法で操る。

ある意味それは自己防衛でもあった。故に、邪な相手を惑わす事には何ら罪悪感も感じなかった。

それだけ、帝国内での地位を左右する攻防は激しかった。



そして、勉学を重ねていくうちに、この国では精霊の理解度がとても低い事を理解した。

その証拠に、幻惑魔法を用いても、他の兵士たちは全く気付く様子も無い。

攻撃の手段として魔法を用いる者はいたが、自分以外の精霊使いには出会った事が無かった。



精霊魔法を用いる人物がいる集落は時折見られたが、いずれもただの民俗信仰として取り扱われていた。

また時代によっては精霊使いは奇異の目で見られ、魔女狩りのように人々の畏れの対象となっていた。

古い文献を紐解くと、捕まり火あぶりにされる者の姿もある。

希少な存在である反面、不可解な存在として、人々の恐怖心を駆り立てたのだろう。

その名残は今もあるようで、時折軍隊が討伐に出立する光景を幾度と無く目撃していた。


「……なんと……哀れですね……」

過去から現在に至る精霊使いたちの理不尽な処遇に居たたまれなくなり、

フォルクマールは思わず眉間に皺を寄せ、読んでいた古い文献の厚い表紙を閉じた。


おそらく、この国で精霊の事を口にしようものならば、奇異の目で見られるだけでは済まないのだろう。





周りの人々への信頼をますます無くしそうになっていた、ある日の事。





「本、落としましたよ?」


図書館からの帰り道、不意に、すれ違いざまに声をかけられる。

両手いっぱいに本を持っていたせいだろうか。うっかり落としてしまったらしい。


「あぁ、急いでいたもので。申し訳ありません……」


振り返ると、ひとりの青年が落とした本を拾い上げて立っていた。

夕暮れ時の黄金色の光が、人も疎らな図書館に放射状に差し込む。

その光に煌きながら、インペリアル・トパーズを思わせるような明るい色の、くせのある髪が風にそよぐ。

青年は穏やかに微笑み、落ちた本の埃を軽く払ってから、丁寧にそれをフォルクマールに渡した。


「勉学熱心なのですね」


その青年は、どこか見覚えがあった。紅色にダブルボタンのトレンチコート。

よく目にする一般兵と違うその出で立ちは、大勢居る、帝国の幹部候補生の中のひとりである事を示していた。



「貴方は確か……」


「私の名は、ブリューゲル。ローゼンベルガー家の長男です。」


そう名乗った青年は姿勢を直し、礼儀正しく一礼をする。その仕草ひとつひとつが、気品に満ちていた。

ローゼンベルガー家といえば、古くから帝国皇帝を支える貴族の家柄だと、いつか義父が言っていたのを思い出した。




「先に名乗らず、失礼しました。私はフォルクマール。

 ……本、拾って頂き、有難うございました」

「あぁ、予備生の中で確か、主席の成績をお持ちの。どうりで、山ほど抱えている訳ですね?」


持ちきれない程の本を抱えていたフォルクマールの様子を見て、くすりと笑う。

しかしその笑い方は、他の幹部候補生たちとは異なり、少しも嫌味を含んでいない、穏やかなものだった。

上下関係の争いで殺伐としたこの帝国で珍しい、と少し驚くフォルクマール。

そんな様子を気にも留めず、山盛りいっぱいに抱えた本をブリューゲルは興味深そうにしげしげと眺める。


「こんなにたくさん……差し支えなければ、どんな本なのか聞いてもいいですか?」


子供のように興味津々な、きらきらした眼差しを向けて本を眺めるブリューゲル。

あまりの熱視線に少しおかしくなったフォルクマールは、控えめながらも読んでいた本の説明をし始める。


「過去の民俗信仰ですよ……今では信じる人は殆ど居ませんがね……」

「へぇ……」

抱えた本を少し下ろし、そのうちの1冊をブリューゲルに差し出す。

古びた背表紙に、風の中に踊る精霊が描かれていた。







「……確かに、この世界は、見えない存在が私たちを護っていると思います」


本を受け取り、背表紙の絵をしばらく眺めていたブリューゲルが、不意にそっと発したその言葉に

フォルクマールは思わず聞き返した。


「何故、そう思うのです?」


「私は、今まで1人で生きてきたという自負はありません。誰かにいつも助けられています。

 今日手にするパンひとつでさえ、勝手に出来たものではない。

 豊かな土と水に育まれ、陽を浴びた健やかな麦の穂から、作り手の真心が込められて出来たものなのですから。

 この国の人たちは忘れがちですが、もっと自然の恩恵と相手の思いやりに、感謝すべきだと思うのです」

にっこりと笑い、そうブリューゲルは穏やかに答えた。


精霊が見えている訳でもないのに、このような考え方をする人物が、まだこの国に残っていたのか。

フォルクマールは心底驚いた。


「貴方が読む本のように、見えない存在が、近くで見守っているのかもしれませんね……」

「精霊を信じるというのですか」

「誰も存在を否定できないのでしょう?」

少しもためらわずに信じようとするその姿勢に、ただただ今は見つめる外無かった。


「その本、読み終えたら、私にも貸してもらっても良いでしょうか?」

続けて素直な笑顔のままそう問いかけるブリューゲルに、まだ驚きを隠せないまま、フォルクマールは思わず頷く。


「きっと借り手はそう居ないでしょうから、すぐに貴方の手元に届くと思いますよ……」

「それは良かった。と同時に、他に読む人が居ないとは、どこか勿体無くもありますね」

ブリューゲルが冗談交じりに笑うと、それにつられてフォルクマールにも久しぶりに自然な笑みがこぼれた。








「貴方、あんな笑い方もするのね。あの人の影響?」


図書館から戻り、椅子に腰掛け本を読むフォルクマールに、不意に声が掛かる。

空に流した菫色のような薄暮の空を切り取り、沈もうとする月の影。

ファルチェが、いつの間にか夕涼みをしながら、窓辺にまどろんでいた。


「今日出会った青年の事ですか? 私も少し驚きましたよ」

読んでいたページに栞を挟み、一旦小休止をして、ファルチェの声に耳を傾ける。


「あのような青年が、この帝国にまだ居たとは……」


人を蹴り落としてまで上に上り詰めようとする、帝国での覇権争いを見慣れているせいか

今日出会ったあの青年は、とても希少な存在に思えた。

そのおかげか、忘れかけていた相手を思いやるという感情を思い出していた。

久しぶりに、人を再び信じてみても良いという気持ちにもなっていた。




しかし同時に、優しすぎる、とも彼は思っていた。

この帝国で生きていくためには、他人との競争に勝たなくてはならない。

そんな状況で、相手を思いやるなどと甘い事を言っていては、いつその寝首をかき切られてもおかしくない。

ここはそういう場所だと、今まで痛感しフォルクマールは生きてきた。


「精霊の存在を信じる信じないはともかく良いわ。

 でも、この国では、彼、生きていくのは難しいわよ?」


丁度同じ考えをファルチェも持っていたのだろう。そう手厳しく言い渡した。


「……でしょうね……」

冷たい宵の風を窓から受け、流れる髪をかきあげながら空に冷たく浮かぶ月を眺めては、溜め息をつく。




「それでも、精霊の存在を信じて貰える人物が増えるのは、貴女にとっても嬉しいのではないのですか?」

「私が気になるのは、貴方だけで十分よ」


ファルチェはそう言うと、つんと澄ます。



しかし、フォルクマールは再び手にした精霊の表紙の本に目を落とす。

精霊の大切さが、この本には書いてある。

人々が精霊の存在を大切に思ってこそ、自然と調和し、うまく共存しているという事を。



「帝国はますます荒廃していきます。人々が精霊の存在を忘れて、驕り高ぶっているからです……

 そんな中、精霊の恩恵を尊しとする人物がひとりでもいるのは、この国にとっても良い事ではないのですか」


「この国の舵取りを行っているのがどんな種類の人間か、分かって言っているの?

 冗談は止めにして頂戴。甘い人間は淘汰されてしまうのよ。

 だから私は貴方を選んだの」



納得できずに食い下がるフォルクマールに、業を煮やしてファルチェは冷たい表情のまま睨みつける。



「幾度も私はマスターを失った。

 優しい人たちだった……あの人のように、自然を大切にし、他人を思いやる人たちだった。

 それが、この国ではどう? 騙され、出し抜かれ、我先にのし上がろうとする奴等によって闇に葬られてきたのよ!」


それは、ファルチェが初めて見せた感情だった。

初めて出会った時には、人を嘲笑うような冷たい笑みを浮かべていたが

今は鋭い目つきで拳を握り締め、わなわなと震えている。


「優しさが身を滅ぼすならば、私は優しさなんか持たない。

 私は精霊として、貴方を護る役目を持つの。

 お願い……今までのマスターたちと同じ末路を辿らないで頂戴……」


決然とした口調で喋っていたが、終わりの方になると、語尾が震えていた。





今まで見たことの無かったファルチェの感情を目の当たりにし、

同時に、冷酷だと思っていたファルチェは、誰よりも自分の事を思ってくれている、と今初めて分かった。





「よく分かりました……

 ただ優しいだけでは、力を持たない人間は、理想を言う事もかなわないのですね。

 ならば、私は強く在りましょう。貴女と共に在り続ける為に」


涙を浮かべ始めていたファルチェが顔を上げると、優しく、しかし毅然とした調子でフォルクマールは告げた。



「この国を変えて見せますよ」



不敵な笑みを口元に浮かべ、夜風にマントをはためかせ、三日月の精霊の前に立つその姿は

誰にも侵し難い気品と自信と決意に満ち溢れていた。





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