とある雨の日、リツが訓練を終えて宿舎へ戻ろうとしていた日の事だった。
リツはブリューゲルを訪ねようと彼の邸宅へ足を向ける。
ここ数日、帝国議会での雲行きが怪しくなり、彼を狙う官僚が増えているという噂は
一兵士であったリツの耳にも入っていた。
自分を助けてくれた彼の安否を、リツはとても心配していた。
立派な門扉のチャイムを押しても、中から出てきた使用人は主の不在を告げる。
傘もささないでやってきたリツは、髪の毛を濡らしながらも、帰るまで暫く待つと言う。
しかし、使用人は表情を曇らせ、いつ戻るか分からない、と話す。
その返事にリツはうなだれ、静かに頷くと邸宅を後にした。
しとしとと降り続く雨の夕暮れ時、灰色に煙る道を歩いて帰路につく。
曲がりくねった砂利道を進むと、途中でどこか分岐点を間違えたらしい。行きとは景色が異なっていた。
戻ろうと足を止め、ふと横を見ると、石垣の向こうに、雨に濡れながらもひっそりと咲く野ばらが群生する一角を見つける。
その庭らしきものには野ばらだけではなく、今では帝国では滅多に見かけなくなった矢車草やネモフィラやセージ、
更にカタバミ、クローバー、オオイヌノフグリ、タンポポ、ナズナなど、素朴な花々がいくつも咲いていた。
すると、その庭の一角にインペリアルトパーズの面影を見つけ、リツは急いで近寄った。
彼も傘をささないで、薄いピンクの野ばらを黙って見つめている。
紅い軍服と萌黄色の庭は不釣り合いだったが、それが何故か奇妙に絵になった。
「……リツか」
リツが近づいてきたのに気付き、彼は振り返った。
近くまで寄ると、その雰囲気の違いにリツは敏感に気付く。
「ジーナだな……珍しいな、こんなところにいるなんて」
「ふふ、すっかり違いが分かるようになったね。
ここは私がこっそり育てている秘密の庭なんだ。」
植物と言えば、帝国ではよく管理された庭園ぐらいでしか見かける事がない。
端正に整えられた芝生、刈りこまれた木々、寄せ植えされた3色スミレやマリーゴールドなど
手入れが行き届いた庭のように、目の前にある庭は立派なつくりとは決して言えなかった。
自然に生えたと言うべき、雑草と呼ばれて庭園にはあまり歓迎されないような花々が
自由気ままに咲いており、お世辞にも庭と言えるようなものではなかった。
しかし、美しさを求めて調整されたそれとは異なり、自然のままに咲いた花々は、のびのびとして健やかだった。
ふと、リツはある事に気がついた。
ここに生えている草花には、精霊の息吹が感じられるのだ。
そしてその息吹は、以前見た景色ととてもよく似ていた。
それは、先日訪れた、森の奥にある孤児院で感じた、みどりに溢れた空気だ。
「庭って言うには、ちょっと素朴過ぎたかな?
こんなのは雑草だ、花じゃないって父親たちには一蹴されたけどね。 ボクはこっちの方が好きだな」
気さくにジーナは笑う。
その笑顔は飾り気が全くなく、この庭に咲く花のように実に生き生きとした、自然で素朴なものだった。
しかしよく見ると瞳には虚ろな光が佇み、表情はすっかり疲れ切っていた。
紅い軍服にはいくつもの傷やほころびがついている。
見つめるリツの視線にジーナは気付いて、笑って答える。
「あぁ、これかい? ここの所忙しくてね。ちょっとヘマして受けた傷ばかりさ」
ジーナが双子の兄のブリューゲルの影武者をしている事は密かに知っていたが、
その傷の多さが何を物語っているかは、リツにも想像がついた。
「……狙われているのか」
「そういう情勢みたいだね。まぁボクの目の黒いうちは、兄さんには手を出させないけど」
話には聞き及んでいたが、実際に目の当たりにすると、その事の深刻さを思い知らされる。
感情に起伏が少ないリツのわずかな変化を、ジーナは見逃さなかった。
「大丈夫、キミが心配する事はないよ。“こういう事”は日常茶飯事さ。
それより、キミはキミ自身の身を案じた方がいいよ。」
「俺が出来る事は何かないのか? 俺はブリューゲルに助けられた。
彼が危ない目に合っているならば、何か出来る事があれば、協力したい」
すると、ジーナは無言で首を横に振る。
「変に動かない方がいいよ。前にも言ったよね? 今は帝国の情勢が極めて複雑だって。
兄さんを葬り去ろうとする動きが密やかに激しくなっている。侵攻を推進する方に、情勢が傾いてきている。
何かしようものならば、足元を掬われかねない。十分に慎重になって動かなくちゃいけない状況なんだ。
キミは今まで通り、上部の命令に忠実であればいいんだ。」
そう言って、リツの心配をはねのけるジーナに、しばらくリツは黙り込む。
そして、静かにこう呟いたのだった。
「……俺は、人形じゃない」
冷徹で容赦ない、その心すらも人間兵器だと揶揄される青の焔の使い手は
珍しく言葉に感情を抱かせて話す。
「前にお前たちから教えて貰った。自分で考える事をな。
今まではあまり意識しなかったから分からなかったが、軍の情勢もそれなりに分かるようになってきた。
無意味な侵略は、人々を悲しませるだけだって。戦争は、大事な人を奪うものだって教えて貰ったんだ。
それは、この国でも同じだ。戦争を進めるあまり、強い兵士を作ろうとする軍上層部は、非道な事をしている。
孤児たちを、人工精霊使いという人間兵器に仕立て上げ、戦いに駆り出している。俺のような存在を作り続けている。
そんな事は、続けちゃいけないんだ……
俺は、俺の意志でブリューゲルの考えに賛成している。だから、彼を助けたいんだ。
上部に言われるだけ命令をこなすのは、ただの人形だ。俺は、人形じゃないんだ……」
もう一度、リツは感情をこめてそう呟いた。
以前会った時には見られなかった意志が、リツの瞳にはっきりと表れていた。
その変化にジーナは驚く。そして、ゆっくりと微笑みを浮かべ、リツが今話した言葉を噛みしめる。
「兄さんを助けたいという、キミの申し出は嬉しい。 とても嬉しいよ……
キミ自身が、自分でそういう意志を抱いてくれた事が、何よりね。
軍部の連中はキミの事をずっと、心まで冷徹な兵器とまで揶揄していた。
そしてボクも今まで、そうなんじゃないかと疑ってきた……
だけど、キミは変わった。 兄さんに会って、変わってくれたんだ。それが、何より嬉しいんだ……」
同時に、冷静な眼差しに戻って、リツから一歩離れる。
「……だったら、尚の事、今は動かない方がいい。
キミの考えで動いているという事は、それだけキミ自身に行動の責任が伴うものなんだ。
それが、この帝国に生きる上で、どんなに危険だという事か分かるかい?
兄さんもボクも、キミを危ない目に会わせたくないんだ。折角芽生えたキミのその大切な気持ちを、潰されたくないんだ。
ボクたちのその気持ちも、分かってくれるかい……?
もともとキミに声をかけたのも、操り人形みたいで自分の事を全く顧みないキミを、放っておけなかったからさ」
そう説得するジーナに尚も一歩も引かずに、リツは己の意志を示し続ける。
まるで、己の中に初めて生じた、感情という名の灯を消すまいとするように。
「それは俺も同じだ……
俺は今まで精霊使いというこの力を、ただ軍のために使ってきた、いわば人間兵器だ。
しかし、そんな俺に感情を芽生えさせてくれたのが、ブリューゲルだったんだ。
何も望まず、ただ言われた通りに街を、人を焼き払って来た……まるで人間とはいえない非道な行いを続けてきた俺が
初めて望んだ事、初めて護らなくてはいけないって思った人間が、彼なんだ。
このまま人間兵器として人を殺め続けるくらいなら、どうせ使い捨てられる兵器ならば、いっそ彼を護って命を落としたい……」
リツはそう言うと、ぎゅっと目をつぶって拳を強く握りしめる。握りしめた拳からは、血が滴り落ちてきていた。
ジーナはそっと優しくリツの手をとり、ハンカチで包む。
「そんな……そんな、悲しい事言わないでよ……
キミの未来は、まだこれからなんだ。 使い捨てられるような未来なんか、ボクらが変えてみせる。
けれど、その為にキミが犠牲になるようなことなんかあっちゃいけないんだ。分かるだろ……?
その気持ちは、キミの心の奥底に、そっとしまっておいて欲しいんだ。それが、きっと兄さんの願いでもあるから」
何か言いたそうで泣きだしそうなリツに、人差し指を唇に当ててジーナはそれ以上話すことを制する。
「大丈夫、ボクらはそんなに弱くないよ。
兄さんが聞いたら喜ぶだろうな。キミの言葉、是非兄さんに聴かせたかったな……」
そして、庭に咲いている一輪の野ばらを摘み、リツの制服にそっと刺した。
「キミに、精霊たちの加護がありますように。……と言っても、精霊使いのキミにボクから言うのも可笑しな話だろうけどね。
……グッドラック!」
そう言って微笑むと、ジーナは雨に煙る庭園を、マントを翻して歩き去っていった。
「……さぁ、役者は揃ったよ。
感情が生まれた人間兵器に、相対する若き理想者たち。
戦争に翻弄される子供たちを護り慈しむ庭園、その主と娘。
青年たちを導くのは、懺悔を背負った研究者……
野心が渦巻くこの帝国で、生き残れるのは誰かな? くすくす…………」
暗い一室で円卓に忠臣を従え、邪な笑みを浮かべているのは、果たして ――――
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