遥か昔に失った懐かしい記憶……


あおあおとした草原を駆け抜ける風の音、木々の柔らかなざわめき。

時折ちらちらと眩しく差し込む木漏れ日。澄んだ水の清らかな流れ。

優しい空気に満ちた緑の庭園に、佇む1人の青年の姿があった。



青年は、長く艶やかな黒髪をそよぐ風になびかせて、

庭園の中央にひっそりと佇む、薔薇のアーチがかかった噴水の方を見つめた。

ほのかに青い、珍しい色をした薔薇が取り囲むアーチの下には、見知らぬ女性と赤子が2人。

しかしどこか懐かしい面影をした3人に、思わず近づこうと青年が足を進め、手を伸ばした。


その時、ざぁっと花びらを散らしながら、風が舞い上がる。

巻き上がる幾多の花びらに目が眩み、青年は思わず目を閉じた。


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瞼を開けると、花びらや庭園の面影はどこにもなく、白いリンネルのカーテンが風にはためいているだけだった。


「……またあの夢ですか……」


黒髪の青年は起き上がるとため息をつき、今までうたた寝をしていた椅子から立ち上がると

椅子の背もたれに掛けてあった黒いマントを肩にかけ、軍帽を被り直した。

窓の外は暗雲が立ち込め雷鳴が轟き、夢で見た景色と全く異なっていた。


紅い軍服にかっちり身を包んだ青年の名はフォルクマール。

この世界を手にしようと目論む、カーディレット帝国の若き官僚の1人である。

彼もその帝国で頭角を現すために、様々な策略を練りだし暗躍を続けていた。

そして今現在その苦労の甲斐あって、官僚たちのトップに君臨している。



「どんな夢を見ていたの?」


不意に、誰もいない筈のフォルクマールの後ろから、女性の呼びかけ声がした。

振り返ると、紅の長い髪を靡かせ、蒼い異国の絹の服を身に纏った女性が、いつのまにか佇んでいる。

妖艶な、三日月のような笑みを浮かべ、肩に振りかかった髪をかき上げながらぴったりと寄り添う。


「……さぁ、もう忘れてしまいましたね」

ふっと笑い、寄り添った女性を意にも介さず、淡々と机に向かい、書類の束をぱらぱらと眺め始めた。


「相変わらず仕事の虫ね」

「当然でしょう、出来ることは出来るうちに。それが私のモットーですよ、ファルチェ」


ファルチェと呼ばれた女性は、椅子の向こうで退屈そうに伸びをした。

「あーあ、つまんないわね。フォルク様が仕事をし始めると、夜まで放ったらかしなんだから」

「その代わり、時がきたら構ってあげますよ。また私のために働いてくれるのですよね?」

構ってくれない、とぼやくファルチェにくすくすと笑いながら、書類から少し目を離して楽しげに答える。

「私の大切な精霊……<三日月の守護者> ファルチェ」







この世界は、精霊によって加護を受けている。

精霊とは、目に見えないが万物に宿りし精神の事であり、精霊の力があって生を全うできる。

時々、精霊の力の恩恵を受け、精霊の力<魔法>を使う事の出来る人間がいるという。

その中でも特に強い精霊の加護を受けている人物の事を、精霊使い、あるいはエレメンタラーと呼ぶ。

普段は目にする事が出来ない筈の、精霊の姿を見て、言葉を交わせる事が出来る特異な存在。

大自然の力を享受できることの出来る精霊使いは、希少な存在として特別視されていた。





フォルクマールも、精霊使いの1人である。

その恩恵のおかげで、精霊と会話し、能力を引き出し己の力として用いる事が出来る。

しかし、現在彼の守護についている精霊は、三日月の精霊ファルチェだけである。

恩恵を授かった筈のもう1人の精霊が存在するが、今は彼にはその姿を見て感じる事が出来ずにいる。

その理由は、彼が幼かった遥か昔まで遡らなければならない……





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時は今から25年前。

カーディレット帝国からずっと遠く離れた所にある、緑溢れるヴィラージュ王国。

優しい風と水と緑の精霊たちに護られた、常春の平和な国。そこが、フォルクマールの故郷であった。


木々が柔らかなそよ風を受けるたび、緑を司る小さな精霊たちが笑い声をあげる。

雨が緑を潤すたびに、小さな葉の傘を頭に被り雨宿りする花の精霊と、空から落ちてきた雨の精霊が楽しそうに話をする。

そんな穏やかな風景を見ながら、まだ幼かったフォルクマールは日々を過ごしていた。


そして、ふと気づくとその隣に、いつも誰かの姿があったのを彼はうっすらと覚えていた。

父親でもなく、母親でもなく、包容力のある温かくて優しいぬくもり。

海のような深い色をした、豊かな髪。吸い込まれそうな鮮やかな紅色の瞳。

穏やかな微笑みを浮かべて、隣にそっと佇むその女性は、変わらない姿でいつも傍に居てくれた。

父母の記憶は殆ど覚えていないが、白くて透き通る手を差し伸べて微笑むその女性の姿だけは、なぜか印象深く覚えていた。





そんな優しい日々は、突如として終わりを迎える。


まだ幼い小さなフォルクマールを取り囲んで、大人たちが何か言い争いをしていた。

やがて、紅い制服を着た男性たちがやってきて、自分を指差して何か言っている。

それにある男性が難しい顔をして、しばらくしてから頷いた。

言い争いが終わったかと思うと、突然荷物をまとめられ、知らない紅い制服の男たちに手を引っ張られて

冷たい色をした籠の馬車に連れられていく。


しとしと降る雨の中、遠ざかっていく緑の庭園。もう一度、かつて遊んだ庭園を覗き込もうとしたが

隣に座る付き添いの男に、手を引かれ席に戻される。

カーテンが引かれる前にふと窓の向こうを見ると、遠目に悲しそうな精霊たちの様子が見えた。




海を越え、やってきた見知らぬ土地は、荒涼たる場所だった。

暖かな太陽は黒く垂れ込めた暗雲に遮られ、砂塵が舞う土には、草木一本生えていなかった。

何より、慣れ親しんだ精霊たちの姿が居ない。


「ここがお前の新しい住処だ」

あまりに違いすぎる環境に驚き、戸惑う幼いフォルクマールに、紅い服の男が冷淡に告げた。

「ここはどこ?」

「カーディレット帝国だ」




新しい土地にやってきてからの扱いは、酷かった。

フォルクマールは、どうやら自分が養子という名の人質として、この国に渡されたという事だけは理解できた。

父母が居ない代わりに、新しい両親の元に預けられたが、その家はとても厳しかった。

きちんとした作法を身につけられ、食事の時にスプーンひとつ落とそうものなら、容赦なく手を引っ叩かれた。


また勉強熱心な義父母で、幼い頃から外に遊びに行くことも出来ず、大量の本を読まされた。

積み上げた本を1日で読破出来ない時は、読み終えるまで部屋に閉じ込められたりもした。

甘えることなど許されず、何より実の父母でない義理の両親になど、自分から簡単に心を許せる筈もなかった。


成長するに従って次第に理解したのは、この家がカーディレット帝国でも有数の有力貴族の家で

のしあがるためには、どの家も自分の子供に英才教育を受けさせ、より高い位置の官職について貰う事が重要だという事だった。

学校へ行っても、身分の違いで態度をころころ変える学友たち。打算的な表面上の付き合いだけで取り繕う毎日。

本音を言って分かり合える筈もなく、言おうものなら弱みを見せたといわんばかりに足元を救われ、孤立させられかねなかった。





毎日が不毛だった。なにより、孤独だった。




自分の心を他者に分かって貰えるなどという考えは、フォルクマールの頭から消え失せていた。

欺かれるならば、それ相応の対応をするまで。

次第に、他者に心を開かなくなっていった。そして、相手をよく観察し、洞察する力だけは身についた。

いつから、心から笑うという事をしなくなったのだろう。



「貴方、冷たい笑い方をするのね」


ふと呼びかけられて、読んでいた本を手元に置き、振り返るが誰もいない。

こちらよ、と声をする方向を見るが、窓辺から夕暮れに浮かぶ三日月の姿しか映らなかった。

訝んでいると、夜空からすうっと音も無く、1人の女性の姿が浮かび上がってきた。

不思議な事に空中で微動だにせず浮かんでいるその女性は、口元に三日月のような笑みを浮かべ

頬杖をついてこちらを眺めている。


「……貴女は、精霊ですね? 久しぶりに、精霊の姿を見ましたよ」

「ご名答。よくお分かりね、水を司りし精霊の申し子さん」

「こんな空中に浮かんでいられる人間を、私は見たことが無いものでして。

 ……水の精霊?」

ひとつの言葉に疑問を持ち、宙に浮かんでいるその女性に問いかける。

「貴方を守護する精霊よ」

「私などを守護している存在が居るのですか。それは初耳ですね」

素直に驚いて、今日初めて聞く事に関心を寄せるフォルクマール。

その純粋な驚きように少し得意になったのか、その女性の精霊は説明を続ける。


「生きとし生けるものは皆、精霊の守護を受けているのよ。貴方はその中でも、特に強い精霊の守護を受けている。

 そうでなければ、私みたいな精霊と話をすることもおろか、見ることすらかなわないのよ?」

「そうだったのですか……」


「それでは、何故その精霊を、私は今まで見る事がかなわなかったのでしょうか?」

今までの記憶を辿っても、話はおろか、存在すら見た覚えの無いフォルクマールは、至極当然な疑問を投げかける。

「見ていないという事はないと思うわよ? 貴方がその存在を感じていないだけ」

その精霊はくすくすと笑い、空中で一回転して膝を抱え込んで浮き上がる。


「この国は特に精霊の力が弱まっているわ。人々が精霊の存在を意識しない。

 感謝の心を忘れた人間からは、精霊が離れていく。その人間には、祝福されない未来が待っているだけ。

 貴方も、現に精霊の存在を忘れかけていたでしょう?」


「では、何故貴女の姿を見る事が出来たのですか?」

さらに疑問を投げかけると、その女の精霊は嬉しそうににっこりと微笑む。


「私と波長が合ったのね。精霊はね、仕えるマスターを自分で選べるの。

 私はファルチェ。嘲笑と幻惑の三日月を司る精霊よ。嬉しいわ、私みたいな精霊と波長が合う人間なんてそう居ないもの。

 貴方の心の闇、私が受け止めてあげるわ」


妖しい微笑みを投げかけて、右手を差し出すファルチェに、少し戸惑うフォルクマール。

まだ信用ならないといった面持ちのフォルクマールを、ますます目を細めながらくすくす笑うファルチェ。


「周りの人間なんて信用ならないわ。それは貴方もよくお分かり?

 けれど精霊はマスターに忠実。知っている? 精霊はマスターの心に惹かれてやってくるのよ?」


「……それでは、今まで私を守護していた精霊はどうなるのですか?

 選べるという事は、離れるという事もあり得ますからね」

「彼女は、貴方の傍をまだ離れる事はないでしょうね」

フォルクマールの問いに、ファルチェは何故か確信を持って言い切る。

「何故分かるのです?」

「精霊に直接聞いてみたら? ……聞くことが出来れば、だけど。

 私の口からは答える義理も無いわ」

そっぽを向いて、つんとすます。どうやら、全てを親切に教えてくれる訳ではなさそうだ。



ふぅ、とため息をついて、フォルクマールはファルチェに向き直る。

手の内がまだ全て分かった訳ではないが、どうやら彼女は自分の力になってくれるようだ。

このまま帝国で味方も無く孤立するよりはマシだろう。

「いいでしょう。私の力になって下さい」

「ファルチェと呼んでね。マスター」

そう言うと、嬉しそうに微笑む三日月の精霊は、新しく主人となった黒髪の青年の隣にするりと降り立った。





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