夜もすっかり更け、あんなに大勢で賑わっていた厨は、今はすっかり静まっていた。
春先になったというのに、この時間になると、足元から底冷えする。
寒さを凌ぐには、足袋ひとつだけでは心許ない。早く火鉢で暖まりたいものだ。
もしくは、炬燵に入ってゆっくりするのもいいだろう。但し、先客であっという間に埋まってしまうが。
そんな事を思いながら、厨仕事を終えた歌仙兼定が、着物のたすきを外しながら部屋へと向かっていると
廊下の先のある一角から、小さな明かりが灯っているのを見かける。
漬け物などの保存食を備蓄しておく、貯蔵庫だ。
夕餉の時間はとうに過ぎ、特に今は用事はない筈だが、何故明かりがついているのか疑問に思い、
貯蔵庫の扉に手をかける。
入口の扉を静かに開けると、そこには燭台切光忠が、玻璃製の丸い瓶を覗き込みながら立っていた。
「おや、こんな時間にどうしたんだい」
「あぁ、歌仙君。
ちょっと以前仕込んだものの出来を見ていたんだよ。君も見てみる?」
燭台切光忠が抱え込んでいた瓶を覗き込むと、そこには小さな花がたくさん、
まるで銀河に浮かぶ星のように浮かんでいた。
蓋を開けると、華やかな金色の香りが舞い上がる。
「これは……」
「ふふ、この香りで分かったかな? そう、金木犀の花だよ。
花を摘んで、お酒に漬け込んだんだ」
「驚いた。いつの間に仕込んでいたんだい」
「書庫でリキュールの本を読んでいたら、作り方が載っていたんだ。
それで作ってみたくなってね。どうかな?うまく出来たかな?」
「あぁ。良い出来だね。とてもいい香りだよ」
金木犀は、その気品に満ちた馨しい香りが印象的な花だ。
歩いていると何処からともなく流れてくるその華やかな香りは、秋を感じさせる。
但し、あまり長くもつものではなく、ちょっとした風雨に晒されると
すぐ儚く散ってしまう。
去年の秋は、金木犀の花を愛でる暇もなく、鍛錬に勤しんでいた。
ただ、道場からは、庭先に生える金木犀の香りが、風に乗って漂っていたのを覚えている。
花を見に行きたい、そう思っているうちに、花はその盛りを終えてしまっていた。
時はいつだって歩みを止める事はない。
流れ去った雲が戻ってこないのと同様に、その一瞬を逃せば、同じ景色は二度と戻ってこないのだ。
分かっていたが、逃した金木犀の秋の香りを、歌仙兼定は随分惜しく感じていたのだった。
「君たちはこの花を楽しむ暇さえなく、忙しそうにしていたから。
勿体ないな、って思っていたんだ」
「まさか君がお酒にしていたとは思わなかったけどね。
秋が戻って来たみたいだよ」
「ふふ、喜んで貰えて嬉しいよ。良かったら、試飲してみて貰えるかな」
「有難く頂くよ」
再び出会った金木犀の香りに感激している歌仙兼定を、燭台切光忠は微笑んで眺めていた。
秋の香りを楽しむ時間を逸した事を惜しんでいたのは、歌仙兼定だけではなかったのだ。
「花は儚いものだからね。だからこそ、精一杯咲く様は美しいよね。
でも人は、時にはこうして閉じ込めてしまいたくもなってしまう。
ひとときの美しさ、馨しさを、少しでも長く楽しみたくて。
……これって、罪なことかな?」
出来上がりたての金木犀酒を、小さなグラスに2つ注ぎながらそう尋ねる燭台切光忠に
歌仙兼定はくすくすと笑いながら答える。
「あぁ。実に罪深いね。これは立派な時間遡行だ。
金木犀の花の時の流れを、こうして止めてしまったのだから」
丸く揺れる金色の水面をゆっくり眺め、玻璃の杯を仰ぐ。
「ならば僕も共犯者かな。時を閉じ込めた花の盃、じっくり楽しませて頂こうか」
以前から書きたいと思っていた、金木犀の小話です!
金木犀の景観、ちょうどアコで忙しくしていたせいもあり、
ログイン期間が足りず、手に入れられなかったのよ……(地団駄)
でもでも! こうして金木犀のお酒にすれば、季節を超えて楽しめるよね!