迫りくる毒矢の前に立ち塞がり、自分を魔の射手から護ったのは。
柔らかな微笑みを浮かべた、純白の乙女だった。
異端者である事を受け入れられないまま動けずにいた自分を、咄嗟に庇い
その命に代えて、護ってくれた。
本当は、護られるのでなく、自分が彼女を護りたかった。
国民の多くが目を背ける、罪のない人々を異端者と貶めていく異端者審問に
たった1人で挑もうとした、健気なその姿。
彼女の、無垢なその純白の修道服が血で染まっていく様を見た時、
自身の無力さを呪い、彼女の代わりに自分が毒矢を受けるべきだったと激しく後悔した。
ジェノの心にいつまでも突き刺さっていたのは、あの時の後悔の念だった。
そして時は流れ、流離い歩き続け、漂流の末に流れ着いたこのワダツミの地で
目の前に涙しているその女性は、自分が辿ってきた過去の道のりに、背負ってきた重荷に
まるで自分の事のように辛さを分かち、悲しんでくれている。
長く厳しい冬を乗り越え、暖かな春の日差しに溶けだした、清らかな雪解け水のように
フマコはとめどなく涙を流し続けた。
未だかつて、このような優しい心を持つ人物に、ジェノは出会った事が無かった。
その涙は、自分の事を護ろうとしてくれた故に命を失った者がいた、という過去を繰り返すまいと、
固く閉ざされたジェノの心を溶かしていくのに十分だった。
そして、ジェノはひとつの決断をする。
「……貴方は、国の上に立つ者としては、優しすぎる……」
それまで俯いていたジェノが、小さな声で呟いた。
その声に、袖で頬を伝う涙を拭うフマコは、ふとその手を止める。
「そうかもしれぬな…… 国を統べる者としては、国民1人1人の事情に構い続ければ、
感情に流されて冷静な判断など出来ぬ。時として、国を護る為には、厳しい判断もせねばならぬからのう……」
彼の指摘を受けて、フマコはかつて起こった、ある出来事を思い出す。
本来ならばその者が犯した罪によって、裁かなければならない人物を
立場や年齢から情状酌量し、配慮した事を。
側近のおすみやスオウからは随分と意見を聞いたが、国の法律にそっくりそのまま当てはめてしまう事に
フマコは躊躇したのだった。
もしかしたら、それが今後に影響してくる可能性も否定できない。
それは一見、彼女の甘さともいえるであろう。
「わらわは、いつも迷うておるよ。この決断が間違っておらぬか。
愛するこの国の民が、辛い思いをしないか……そう思わざるには、おられぬのじゃよ。
わらわの傍に仕えてくれる者たち、国に住まう者……皆には、いつでも笑っていて欲しいからの。」
フマコはそう言って笑う。その微笑みは、朝日に煌めく雪原のように輝いていた。
まだ君主としては年若く、未熟故に己が下した決断をフマコは日々振り返り、それが本当に良かったのか迷っていた。
彼女の言葉を聞いた周りの神職者たちは、改めて自身が仕える主の誠実さに、感謝と尊敬の意を込めて見上げた。
そして、彼の言葉を真摯に受け止め自身を振り返るフマコを前に、玉砂利に座っていたジェノは呟く。
「……貴方によく似た人物を、私は知っています……
その方も、貴方と同じように他人の傷を自分の傷のように辛く感じるような、優しい方でした。
国の決まり事だからと皆が目を背ける事にも、正面からたった1人で立ち向かう強さも持っていました。
しかし、彼女は、道半ばにして凶弾に倒れてしまったのです……
異端者だと周りから糾弾され、命を狙われた、この私を庇って……」
そう話すジェノの瞳から、きらりと光る涙が零れ落ちたのを、フマコは見たのだった。
そして、彼はこう続けた。
「彼女は死すべきではなかった……彼女のような人物こそ、フロレアールに希望の光を取り戻してくれる存在だった。
私はその希望の光を潰えさせてしまった罪人です。
しかしながら、私は彼女を犠牲にして生き永らえた、罪深き者……ならば、私は何をすべきか」
暖簾を上げて姿を現したフマコを始め、多くの神職者たちが見守る中、彼は膝をつき、頭を垂れて
フマコの前に傅いたのだった。
「私はこの境遇故に、今は祖国には戻れない。しかし、ただ何もせず、このまま終わるわけにはいかない……
ワダツミノ国にとっては、私は遠い異郷の地からやって来た異邦者であり、
周りからしてみればまだまだ信じるに足る立場でないとは思います。
ですが私は、命を助けてくれたこの国に、恩返しをしたい。
貴方のような国民1人1人を思いやる慈悲深く、誠実な方にこそ、仕えたいと思うのです」
意を決した眼で、フマコを真っ直ぐ見据えるジェノの瞳は、一点の曇りもなかった。
すると、フマコは、ふわりと微笑んだ。
「……わらわたちはな、お主が自らそう言うてくれるのを、実はずっと待っておったのじゃよ。
ツトムから、よくお主の話を聞いておった。無論、異国の者故にその動向を探るという意味も込めてじゃが、
ひとつひとつの報告から、お主の人となりを教えて貰うたぞ。
そして、お主の剣が教えてくれた過去、それ以上に今其方の口から出た、心の底から湧いたその言葉。
実に生真面目で、やや不器用な所もあるが。 国や民を思うてくれる、その優しい気持ち……
御国守りとして、これ以上に相応しい者がおるかの。」
ころころと笑いながら、まるで小さい時から見守っていた子供の成長を喜ぶように、フマコはそう言ったのだった。
そして、厳格な面持ちになり、一国の主として、目の前の騎士の青年に対峙する。
「……無論、其方の本当の所属はフロレアール王国であり、異端審問で辛い目に逢っている国の者や
仲間の聖花騎士たちを助けに行きたいという気持ちは、きっと強いと思う……
しかし、今この時期にあの国に戻るのは、得策ではないと思うのじゃ。
故に、わらわから、直々にお願いしたい。
ジェノ、其方にワダツミノ国の御国守りとして、この国に仕えてくれぬかの」
・
・
・
昨晩から降り続いた雪は止み、昇りたての旭日が大社殿を照らし出すと、軒先から雪垂れの雫がぽたりと落ち、きらきらと煌めいた。
そんな朝のきりりとした空気が立ち込める中庭を眺めに、渡り廊下に出てきたのは
神職者たちとは異なる紺色の着物と袴を身に着けた、雪のような銀髪の青年だった。
「さて、今日も朝のお勤めを始めようか」
中庭の一角にある、湧き水がこんこんと出てくる泉の前にやってきて、木の桶に水を汲む。
澄んだ泉の水は氷のように冷たかったが、その桶に雑巾を浸し、渡り廊下や障子戸の木の枠を丁寧に拭き始める。
そこに、寝癖をつけて欠伸をしながら歩いてくる少年がいた。
「あれぇ、おはようございます〜! ジェノさんは、朝早いんですね〜」
「おはよう、ジュンイチ。何だか、朝起きが身体にすっかり染みついてしまってね。
何かせずにはいられないんだよ」
ジュンイチと呼ばれた少年は、干してあった雑巾をひとつとると、桶に浸して拭き掃除を一緒に始める。
鼻歌を歌いながら雑巾を絞り、拭き掃除をする彼を、ジェノは感心して眺めた。
「ジュンイチは、冷たい水がちっとも辛くないんだな。凄いな……」
冷たい水に何度も手を浸しても全く動じない様を褒められて、ジュンイチは少し嬉しそうにする。
「まぁ、毎日触れてるから。慣れちゃったのかなぁ。ジェノさんは冷たい水苦手?」
「はは、私はまだ慣れないな……」
しもやけしそうな真っ赤な手を何度かさすって暖めながら、ジェノは苦笑した。
そんな2人の後ろから、2人の巫女が声をかける。
「あら、お早う御座います。朝早くから精が出ますね」
にこやかに声をかけたのは、御水ノ番の巫女のキヨミだ。
「おはようございます。キヨミさんも、朝のお勤めですか。」
「はい。朝食に、朝一番の力水を汲もうと思いましたら、先を越されてしまいましたね?」
「これは、申し訳ない事を……」
「いえいえ。力水は、一番に最初に汲み上げた方の恩恵ですから。
大社殿を綺麗にして頂けて、私たちもきっと清々しく1日を過ごせますわ」
申し訳なさそうに謝るジェノに、キヨミはふふふと笑って答えた。
「あ〜、でも、力水で炊いた、白い炊きがけのご飯、食べたかったなぁ……」
隣でジュンイチが残念そうにぼやく。そんな彼に、キヨミの隣に居た御火ノ番の巫女、ユメエがくすくすと笑った。
「大丈夫ですわ。泉の水の恩恵は力水でなくてもありますから。
美味しいご飯を炊くので、待っていてくださいね」
「うん! よろしく、ユメエちゃん!」
朝ごはんが待ち遠しいのか、ぐ〜と腹を鳴らして満面の笑みで答えたジュンイチに、残りの3人も思わず笑ったのだった。