陰謀と策略、様々な思惑が渦巻いているカーディレット帝国。
ここでは様々な身分の者たちがのし上がろうと策略を巡らせ、日々奮闘している。
自らの実力を磨き、下剋上を狙う者。
強い者の傘に隠れて自身の安全を図りつつ、手柄のおこぼれを狙う者。
侵略戦争にかこつけ、捕虜とした国から持ち込んだ物資を売りさばき、利益を得ようと画策する者。
外交が不得手な国に同盟を持ち掛け、あわよくばその国からあらゆるものを搾りだけ絞ろうとする者。
皆、年若き皇帝を支えるなどという事は二の次で、自身の出世だけ、利益だけを目論んでいた。
そんな中、ローゼンベルガー家は献身的に皇帝一家を支え続け、嫡男であるブリューゲルは
野心を一切纏うことなく、己の正義を貫き、皇帝に忠誠を尽くし続けていた。
だが、彼は自ら罪を被り、反逆罪などという濡れ衣を着せられ、無情にもその命を絶たれたのだった。
こうして親皇帝派は、彼を最後にその殆どが息途絶えた。
皇帝の座は、現皇帝から彼の従兄である分家の子息に、近いうちにいずれ取って代わられるだろう……
帝国に住まう人々はそう噂していた。
しかし、この帝国軍の中には、未だ誰にも気付かれずに
亡きブリューゲルや現皇帝を慕い続けている存在が、ひっそりと残っていたのである。
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「うぅ…… ぐうぅ……ッっ……!!」
脂汗を浮き上がらせ、洗面台に凭れて苦悶の表情を浮かべていたのは、明るい湖のような色の髪をした青年だった。
胸を掻きむしり、途絶えそうな息をなんとか整えながら頭を上げ、目の前の鑑に映った自分の姿を見やる。
灯りの少ない石造りの暗い廊下の中、鑑はやけにくっきりと己の姿を映し出した。
しかしそこに映ったのは、自身の深い青い瞳ではなく、己の瞳を借りた、
闇から仄かに浮かび上がるような井戸の底のような、背筋が寒くなるような色だ。
そして彼の脳内に、別の誰かの呼び声が響いてくる。
『モウ、全テ、諦メテシマエバイイ……』
「やめろ……」
己の意志と関係なく湧き上がってくるその声は、繰り返し彼に囁きかける。
『皆、死ンデシマッタ。誰モ残ッテイナイ。モウ足掻クノハ止メヨウ…… イッソ、全テ投ゲ出シテ、楽ニナロウ……』
「まだだ……まだ終わっちゃいない………」
絶望を囁きかけるその声を打ち消すように、青年は己の底に残った僅かな可能性を搾りだして、言の葉として紡ぐ。
全て諦める事を呼び掛けるその声は、徐々に彼自身の心の中にも巣食っていた。
なんとか絶望を否定し続けるも、頭のどこか片隅では、もう可能性などどこにも残っていないのではないか、と、
青年はそう思い始めていたのだった。
しかし、ここでそれを認めてしまったら、立ち止まってしまったら。
ほんとうにそこで終わってしまう。
銃で射抜かれたとはいえ、処刑の瞬間その姿を突如眩ました、主のもう1人の双子と従者の生存を信じて、
自分は待ち続けなければ。
「……言ったはずだ。僕はまだ諦めない。僕は君に、僕を明け渡さない。
彼らが戻ってくるまで、決して!
……さぁ、分かったら、さっさと退散するんだ!!」
石の壁に拳を思い切り打ち付け、青年は叫んだ。
その言葉を最後に、彼に囁き続けた闇からの使者は、寂しそうな溜息を残して、一旦彼の瞳から退いていった。
すると、張りつめていた緊張が解け、どっと疲れが出て、壁に向かってへたり込んでしまう。
息も絶え絶えな彼の姿を、廊下の向かい側から歩いてきた衛生兵が発見し、急いで彼の元に駆け寄った。
「アルフレッド?! しっかりして!!」
駆け寄ってきたのが、よく見知った衛生兵であるのを確認し、アルフレッドと呼ばれた青年は安堵の息をついた。
ふわりと柔らかい感触が肩にかかる。色素の薄い髪を揺らし、その衛生兵は彼に肩を貸した。
なんとか支えて貰い、医療部隊の処置室に向かい2人はゆっくり歩き出す。
「ありがとうございます、クリスティーヌさん。助かりました……」
真っ青な表情でありながらも、アルフレッドはなんとか衛生兵に礼を言う。
クリスティーヌと呼ばれた衛生兵は、その華奢な体格からは想像できない程の力で、彼を支えて歩く。
「また……精神侵食ですか?」
「はい…… 日に日に酷くなっていくんです……」
アルフレッドは革命以降、一般兵たちに紛れ、人工精霊使いの被験者に自ら志願したのだった。
過酷な実験の結果、人工精霊使いとしての力を手に入れた。
しかしその代償として今、精霊による精神侵食に耐えていたのだ。
「自我を蝕む……過酷な代償ですね……」
クリスティーヌは哀しそうにぽつりとつぶやく。
彼女ら医療部隊では、戦いで負傷した兵士だけでなく、精神侵食を受けた兵士たちのケアも担っていた。
大勢の兵士たちが人工精霊使いの実験に志願し、精神を壊していく様を、彼女らは目の当たりにしている。
このように苦しんでいる兵士たちを前にして、医療部隊として出来る事と言えば、
精神安定剤を与えたり、休養を取らせるぐらいしか無かったのだ。それが、彼女たちにとってはもどかしかった。
「貴方はまだなんとか自分の意志を保っていますが…… 自我を無くして発狂してしまった兵士たちを多く見てきました。
貴方たちに対して、私たちは何もお力になれず、申し訳ありません……」
「とんでもない! 辛い時にかけて下さるお言葉の、心強い事と言ったら。いつも感謝しています。
貴方の看護に報いる為にも、早く回復しなければ。」
申し訳なさそうに頭を下げるクリスティーヌに対して、ぶんぶんと手を振り、アルフレッドは礼を言った。
そんな様子に、クリスティーヌは困ったようにくすりと笑う。
「アルフレッドは頑張り屋さんですね。 この間、医務室で休養をとっていた少年もそうでした……
貴方よりまだ幼いのに、技術研究部から託された仕事をしなければ、と、回復したと同時に、飛び出していってしまったんですよ。
もう少し、私たちに仕事をさせてくださいな」
「もしかしてそれは、この間話題になっていた、あの……えぇと、凶器の紅い靴の君……の相手を務めた少年の事ですか?」
興味深そうにアルフレッドが尋ねと、クリスティーヌは頷いた。
「ダンスが終わると同時に倒れてしまったので、皆心配しておりましたよ。
同時に、彼女の相手を務めきったのは、大したものだと、皆口々に褒め称えていました。
まぁ確かに、あのダンスの相手はかなり気力を尽くさないと、こなせなさそうですからね……」
アルフレッドも周りから聞いた話を面白そうに紹介する。
「はは、まぁ、でも、僕の方など彼が受けた苦労の足元には及びませんよ…… 大丈夫です。まだ、大丈夫……」
笑いながらも彼の語尾が次第に小さくなるのを聞き届け、クリスティーヌは静かに嘆く。
「皆、そう。無理をし過ぎです…… ここまでして戦い続ける理由があるのでしょうか……」
戦い続ける理由。
それを聞いた瞬間、アルフレッドは、冷たくなった主の、無念そうな表情を思い出す。
主は今は居ない。しかし、彼が遺した志は、自分が引き継がなければ。
その為にも自分は、例え孤軍奮闘だとしても、戦い続けなければ。
悲劇は、二度と繰り返させない。
決意を新たにして、アルフレッドは己の拳を強く握りしめる。
「きっとその彼も、そこまでして働かなければならない理由が、何かきっとあるのでしょう。
仕方ありません…… 何かを得るには、己の何かを犠牲にしなければ。
僕の場合だって、人より強い力を得る為に、この代償を負ったに過ぎません……
この国で生きていく為には、力を得るしかないのです」
彼の言葉に、ただただクリスティーヌは何も言えず、静かな足取りのまま、2人は石造りの廊下をただ進むのだった。