件の写真の、ワダツミ出身のコリンドーネのスパイが逃げ出したというニュースは

翌朝一番、帝国軍内に瞬く間に広まった。


軍の内部にある、兵士たちが集う食堂でも、すれ違う兵士たちは誰もがもっぱらその話題を口にしていた。


騒がしく集う兵士たちから離れ、少し閑散とした長いテーブルに座っていたマーキスとウォルターも

もくもくと朝食を取りながら、遠くからその話題を静かに聞いていたのだった。



「……あいつ、逃げ出したんだってな」


「どうやらそのようだ。ヤバい実験に駆り出されていたらしい。

 スパイだって分かった挙句、その経歴も洗いざらい調べ尽くされてな。

 あまり口を割らなかったそうだが、ペンダントに入っていたあの写真。

 あれが命取りだったそうだ」


「あんな、たった一枚の、しかもかなり古い写真だけでか?」


怪訝そうな表情のマーキスに、朝食に珍しく出た味噌鯖を口に運びながら、ウォルターは淡々と答えた。


「諜報部の情報網を甘く見るんじゃねぇぞ。

 一般兵の他のボンクラどもは、一緒に映っていた巫女の子にばかり注目していたが

 あいつ、ワダツミの神官の家系の跡取りだったらしい。

 神官ってのは、あっちの国じゃ、精霊と人間とを取り持つ、神聖な職種だそうだ。

 上部はその経歴に着目し、人工精霊使い実験に駆り出したようだ。」


「人工精霊使いの実験…………」


それを聞くと、マーキスは頑なな表情で口を閉ざした。

押し黙ってしまったマーキスの様子をちらと見上げ、ウォルターは手にしていたフォークを置き、そっと問いかける。


「……気になるのか?」


「あいつ、以前俺たちに会った時、孤児だって言ったよな……

 だから俺、あいつを何か放っておけなかったんだよ。

 無茶な仕事で無理してばかりでさ。助けてやらなきゃ……って。


 だけど、あいつはコリンドーネの密偵だった。孤児だっていうのもウソだった。

 無理していたのは孤児だから、生きていく為だからじゃない……敵国で情報を集める為だったんだ……

 そう思うと、あいつの言葉は、行動は、全部嘘だったんだって思うとさ、なんか、騙された気がしてよ……」


マーキスはそう呟く。

偽られた事に対して抱いたのは、怒りの感情でなく、悲しみと困惑の方が勝っていたようだった。


「密偵として帝国にやってきたんだ。己を偽るのは当然の行動だろう。

 ……お前は、少しアイツに感情移入し過ぎている。もう少し冷静になれ。」


ウォルターの方は、事実を冷静に受け止めているようだった。

それでも釈然としない表情のマーキスを見ると、溜息をついて頭を掻き、静かに語り掛けた。


「アイツは確かに、恵まれた環境で育ってきたお坊ちゃんで、俺たちのような孤児の辛さとは無縁だったと思う。

 だが、アイツが見せてくれた感情は、全てが嘘だとは俺は思わねぇな。まだ16そこそこの青いガキンチョだろ。

 いくら密偵として鍛え上げられたからといって、本当の気持ちを隠せる程器用じゃねぇと思うぜ」



ウォルターは、初めてジャック……もとい、ケイスケと出会った日の事を思い出していた。

自分たちとぶつかってしまった疲労困憊な彼に、声を掛けて返ってきた言葉とは。


自分には、大事な人も、帰るべき場所もない


そう虚ろな瞳で呟いた少年の、あの孤独な言葉は、忘れようとしてもそう簡単に忘れられるものではなかった。

事情は何であれ、自身を偽ってまでこの帝国に単身乗り込んできたあの少年は、

孤児ではないにしろ、決して幸福な境遇ではなかったのではないか。ウォルターにはそう思えてならなかったのだった。







あの日、報告と称してケイスケが打っていた電信文を解読すると、それはリトス経由で敵国コリンドーネへと向けられた

暗号化された我が国の機密を記した報告書だった。


十六夜の、少し欠け始めた月が浮かぶ、とある夜。

ウォルターは密かに電信室に忍び込む影を見つけて、背後からその襟首をつかんだ。

月明りに照らされたその姿は、機械に手をかけ、引きつった表情を浮かべたまま固まっていたケイスケだった。


「お前……ただものじゃないと思っていたが、まさかスパイだったとはな」


すぐさまケイスケは懐からナイフを取り出し、ウォルターに向かって斬りかかる。

しかしその腕を軽く避け、掴んだケイスケの腕をギリリと音がする程締め上げる。

苦悶の表情を浮かべるケイスケの手から、ナイフが力なく床に落ちた。


壁にそのまま彼を打ち付けると、両腕をひねり上げ、アイスピックを首元に当てて、冷たい声で質問を投げかける。


「……この若さで、よく帝国に忍び込んだな。お前はコリンドーネのスパイか?」


締め上げられるケイスケは、ウォルターの質問に対しても依然として強い眼差しを浮かべ、一向に何も喋ろうともしなかった。


「いいだろう。上等だ」


ウォルターは首元に当てていたアイスピックを振り上げ、迷わずケイスケに向かって突き刺した。


ダン、と鋭い音を立て、突き刺さったアイスピックの鋭利な切っ先は、ケイスケの耳元わずか3センチを掠め

横の壁に食い込み、穴をあけた。

アイスピックを握りしめるウォルターは、容赦しようという気持ちなど微塵も感じさせない、冷たい眼をしていた。


「風穴を開けられたくなきゃ、正直に答えろ。もう一度聞く。 ……コリンドーネに、一体どんな情報を送った?」


先程よりも1オクターブ低い声で、静かに、有無を言わさない迫力で、ケイスケに迫るウォルター。

しかしケイスケは、ウォルターに脅しをかけられても、涙も見せず震え声も上げず、強い眼差しでじっと見据えたまま、そっと呟いた。


「……お前らに教える事など、何もない」


そう答えるケイスケに、腕を抑えていたウォルターの力が、一瞬ふっと抜けた。

放してくれるのか、そう思った矢先、強い膝蹴りがケイスケのみぞおちに入る。


「が……はッ……っ!!」


みぞおちに入った蹴りは、想像以上にきつかった。痛みで視界が霞む中、ウォルターは淡々と、尚も容赦なく問いかけてくる。


「どうだ、痛いだろう? 最初から身体に穴を空けるなんて流石に可哀そうだからな。

 これ以上痛い思いをしなくなければ、大人しく答えろ。」


それでも、うずくまりながらもケイスケは反抗し続ける。


「情報を売るぐらいなら、死んだ方がマシだ」

「大抵、皆はじめはそう言うんだがな……お前はどこまで耐えられるかな」


冷徹な眼差しで、ウォルターはケイスケの襟首をつかんで強く引き寄せた。




その瞬間、ケイスケの首にかかっていた真鍮のロケットペンダントが外れ、甲高い音を鳴らして地面に落ちる。

普通のロケットペンダントだったはずのそれは、地面に落ちた衝撃で、中の仕掛けが作動して

小さく切り取られてはめこまれたブロマイドの奥から、もう一枚、古ぼけた写真が出てきた。



それは、まだ年若い2人の少年少女の写真だった。

独特の服装をした、少し硬い表情の少年と、柔らかく微笑む少女。


その写真がケイスケの目に映りこむと、先程ウォルターが凄んで見せた時よりも、もっと強い恐怖の表情を浮かべて

ケイスケは凍り付いた。



「これは……」


ウォルターがそれを拾い上げると、写真に写っていた2人をじっと見つめた。

ケイスケは何も答えられず、青ざめた表情で震え、ただ俯いているしかなかったのだった。







その後、重要な情報を掴んでいると判断し、結局のところウォルターは彼の身柄を上層部に引き渡したが

彼の出自や、頑なに口を割る事を拒んだあの覚悟、そしてあの孤独感を漂わせる異様な雰囲気について

ウォルターはケイスケの事がずっと気にかかって、実は何回も話を聞きに行っていたのだった。



なんて事は無い。マーキス同様、自分もあの少年の事を放っておけなかったのだろう。



それはきっと、あの十六夜の日に見た少年の眼差しが、どこか分かる気がしたから。

あの眼差しは、何か大切なものを心に秘めている時の眼差し。



以前ケイスケは、自分には大事な人も、帰るべき場所もないと言っていたが、実は本当はそうじゃないんじゃないか。



ウォルターは、そんな気がしてならなかったのだった。