冷たい実験台の上で、拘束具で全身を束縛され、あまつさえその意識さえ薬で奪われた、憐れな少年は

抗う力さえも失い、涙を流しながら深い昏睡状態に落ちていった。


少年が抵抗する力を失うと、研究者たちは、いくつもの実験器具を作動させる。

ビウビウと不気味な音を立て、器具たちがうなり声をあげた。


被験者であるケイスケの隣にある、強化ガラスの巨大な真空管の中には、膨大なプラズマが走る中

1つの不気味な影が蠢いていた。

それは、カーディレット帝国の研究者たちとフロレアール王国のとある修道士が共同開発した、

木の属性を司る、とある精霊だった。



その精霊は、水や栄養を一切与えられず、あちこち傷つけられ、極限の状態にまで飢餓状態にされた、1本の小麦であった。


生き延びる為に、あらゆる手段を使って目の前にある相手から栄養を搾り取ろうとする。

そのように、帝国の研究者たちに、作り上げられた。

枯れかけたような土気色の顔、しわがれた手足、しかし清楚な亜麻色のエプロンドレスに身を包んだ彼女は

生きる事を渇望していた。




強い電流で周りに制御結界を張り巡らされ、閉じ込められていたその精霊は

一同が注視する中、研究者たちの合図で、制御結界の電流が解かれた。





精霊をはっきりと目視する事の出来ない研究者たちにとっては、その姿はおどろおどろしい毒霧のようなものだったが

視認できるエドワードは、彼女に向かって嘲笑を含んだ笑みを浮かべて語り掛ける。


「さぁ、トリティクム。君の力は、目の前にいるその少年を介して、より強く発揮する事が出来るよ。

 君はずっと望んでいたんだろう? 自身の存在を受け入れてくれるマスターを。

 彼はどんな事でも辛抱強く受け入れる子だ。きっと君も気に入ると思うよ。

 呪っていたんだろう? いくら育ったところで、ただ無残に刈り取られる自身の運命を。

 この世界に根を張り、それまで蹂躙され続けていた、人間たちの命をたっぷりと喰らうといい。」


そう言い、エドワードは残酷に笑う。



電流による遮断が解除されると、トリティクムはゆっくりと手を伸ばし、這いずるようにして

試験管のガラスを伝い、目の前もろくに見えないまま、目の前の少年に向かっていった。




その干からびた手が彼に触れるか触れないか、その瞬間だった。




突然、柔らかな光が彼から解き放たれる。

その光に一瞬トリティクムは怯み、伸ばしかけていた手をひっこめる。


研究者たちが突然の光芒に驚く中、エドワードは光の中から美しい女性が現れたのをはっきりと目視したのだった。



すらりとした白く細い手足。月の光のように輝く黄金色の髪が、滑らかにサラサラと流れる。

着物を身に纏い、市女笠を被ったその佇まいは、所作は控えめでありながら、どこか芯の強さを感じさせた。



彼女こそが、目の前の少年・ケイスケを守護する月の精霊、マドカだった。




「ばかな……この少年には、守護精霊は確認されていなかった筈……」


人工精霊使いの兵士の1人が呟く。

それまで月の光の元にしか姿を現さない彼女は、帝国の研究者や人工精霊使い、エドワードにも

その存在を知られていなかった。




マドカは主を護るかのように、トリティクムの前に立ち、その行く手を阻む。



「憐れなお方よ、どうか私の主を傷つけないでください。

 貴方がもし主に憑りつき、その憎しみのまま世界や人々を蝕めば、貴方の業はますます深まるばかり。

 貴方は、それでいいのですか……?

 この方は、そんな事は望んでいません。心優しいお方です。」


心を落ち着かせる柔らかいマドカの声は、悲しみと恨みに満ちたトリティクムの心に、少し戸惑いをもたらした。


しかし、エドワードがそれを阻む。


「惑わされるな、トリティクム。君の辛さは、僕が一番分かっている。

 優しい言葉なんか信用できない。

 なぜならば、目の前の精霊は、君自身の壮絶な辛さなんか、これっぽっちも分からないからだ。

 自分の憎しみは、自分にしか分からないんだ。相手が分かち合おうとするなんて、絶対に出来ないよ。

 彼女が並べ立てるのは、口先だけの偽善だ!!」


彼のオッドアイの右の瞳は、深い激情で憎しみの赤に染まっていた。

まるで、己が生まれてきたこの世界全体を憎むかのように言い捨てる。



エドワードが研究者たちに合図すると、研究者たちはとある束縛電波を彼女に送った。

憎しみをより強くさせる記憶を増幅するプログラムだ。


身を切られるような過去の記憶をより鮮明に浮き上げさせられ、トリティクムは激しくもがき苦しむ。



トリティクムは叫び声をあげて、枯れ枝が何本も束ねられ鋭く尖った指先を、マドカに突き立てた。



しかし、マドカは逃げなかった。

トリティクムの凶悪な手がマドカを貫くと、彼女の身体から血の代わりに輝く生命の光の粒が、ポタポタと流れ落ちる。

苦痛に顔を歪ませながらも、尚もマドカは震える華奢な指を伸ばし、自身の身体を貫いているトリティクムの手に

そっと自らの手を重ねた。


「お願いです。これ以上、自分自身で自分を傷つけないでください……

 貴方は、こんな事を望んでいない。私には分かります。貴方はとても優しい方です……

 ほんとうは、人々に献身的に尽くしてきた身なのですよね。

 貴方が悲しむと、私もとても切ないのです……貴方には、笑顔でいて欲しいのです……」


マドカが、その眼から一筋の涙を流す。 その涙が、トリティクムの手にぽたりと落ちた。






すると、それまで周りをすべて憎むかのようだった彼女の唸り声が、止まる。

憎しみの色だけしかなかったトリティクムの瞳に、ようやく優しい月の光が差し込む。




「トリティクム……? どうしたというんだ……?

 君の憎しみはどうしたんだ……?」


エドワードが彼女の変化に戸惑っていると、冷たい無慈悲な研究室に、突然威勢のいい声が響き渡る。



「自分の憎しみばっかり、周りに当たり散らして振り撒いているんじゃないよ!!」



トリティクムの指先が、突然凍り付く。咄嗟にその腕をマドカからひっこめると、彼女の前にもう1人精霊が現れた。

澄んだ氷のような透明な水色の瞳でトリティクムを見据えていたのは、氷の精霊・グランディネだ。



「いいかい、アンタは今公害なんだよ!!

 公害なんてね、誰にも感謝されないし、忌み嫌われるばっかりなのさ!」


勇ましく叱咤するその言葉は、かつて彼女がマスターである人物から言われた言葉だ。

しかしただ強く非難するだけでなく、少し落ち着いた口調になり、悲しそうに労りの眼差しを向け、トリティクムに語りかける。

かつて、自身が受けた心の傷、人間からの仕打ちを思い出すかのように。


「そりゃ、酷い目に逢ったから、嫌われたから、相手に酷い事してやろうって気持ちは分かるけどさ……

 いくら相手がひどい事したって、憎しみを憎しみで返しちゃ、アンタの心は傷つくばっかりなんだよ。

 絶対、そんなの浮かばれないんだよ。」



そして、崩れこむマドカの隣に、そっと佇むもう1人の姿があった。

それは、かつて帝国によってその身を汚され、憎しみを募らせ続けてきた雨の精霊、プルーヴィアだ。


「この子、傷つけるの……ダメ…… この子、私、助けてくれた……」


それまで言葉を話せなかった筈のプルーヴィアが、マドカを護る為に、たどたどしくもゆっくりと言葉を紡ぐ。

傷ついたマドカの身体を支え、決してその場から動こうとしない。



かつて帝国によって見出され、戦いに賛同してきた筈の精霊たちが、彼らを見限り

マドカを懸命に護る様子に、エドワードは信じられないような眼差しで見つめる。


「どうして……? 君たちは、人間たちの破滅を願った。

 だからこそ、僕らの考えに共鳴し、自らの力を引き出せる主人を選び、操る事を選んだんじゃないのか……?」


目の前の状況をまるで飲み込めないエドワードに、グランディネは反論する。


「確かにアタシたちは、長い事この国に、この国の人間たちに受け入れられなかった。

 それどころか、プルーヴィアのように傷つけられた仲間たちだって大勢いた……

 だけど、アンタのやり方じゃ、もっと暗い未来しか見えてこないんだよ!!

 憎しみ合う未来なんか、自分で自分を貶める未来なんか、まっぴらごめんだね!!」





まったく実験が進まない様子に、精霊の声が聴けないクローチェやジョシュアをはじめとする研究者たちは、戸惑いの声を上げる。


「エドワード様、なかなか精霊が少年に定着しませんが……?」

「全く、なんなのかしら、もう!? 精霊との親和性が高い筈なんでしょこの子!?」


ざわつく研究者たち。 そんな彼らの声が広がると、エドワードは突然拳を振り上げた。

それまでいつも見せていた、どこか見下すような余裕の表情を、思いっきり歪めて。


「あぁぁ!!!! どうして僕の思い通りにいかないのかな!!? 腹立たしいねこいつ!!!」


実験室のキーボードに思い切り拳を打ち付けると、パネルがあまりの衝撃でひび割れる。






すると、実験室の照明が突然全てブラックアウトする。


「何だ?! どうした?!」

「停電だ!! 早く予備電源を…… うわッっ!!?」


ザシュっという鋭い音が響く。

全く状況が視認できない状況で、次々と護衛の兵士たちが反撃できないまま沈んでいく。



実験室の電源につながるコードが、部屋の外で切り刻まれていた。

そのおかげで、突然全ての電源が落ちたのだった。


そんな中、高速で次々と護衛を切り倒し、実験台に縛り付けられていたケイスケの元に

1人の人物が辿り着いた。


袖の下からアイアンクローを取り出すと、彼を縛り付けていた拘束具を切り離した。



薬によって身動きできない彼を抱きかかえると、その場から一瞬にして消える。




予備電源が入った時には、実験台の上には被験者の少年は影も形もなかった。


「わ……私の可愛いモルモットが!!」


絶好の被験者を失ったジョシュアが泣き叫ぶ。


「な……一瞬にしてこんな事が出来る輩が?! どこのどなたの仕業?!」


軍帽を投げ捨て、怒りを顕わにするクレメンスに、グスタフは静かに歯噛みする。


「この気配……以前に感じたことがあるぞ……かつての革命でな……」


そのつぶやきに、エドワードが冷たく言い放つ。


「そうだ……間違いない。僕らの国の落ちこぼれ、裏切者のあいつらの仕業さ」








雷鳴轟く暗い空の下、厳しい風が吹きつける、帝国の要塞の見張りの塔の屋根の上。

ケイスケを抱えていたのは、インペリアル・トパーズのくせっ毛をした、紅い官僚の制服に身を包んだ青年だった。


「やれやれ、全く、またこの服を着る事になるとはね」

「おかげで、怪しまれずにここに潜入できたのですから。兄君に感謝しないとですね」

「分かってるさ…… 兄さんをあんなにして、その報いは受けて貰うよ……」


隣に控えていた赤いベレー帽の諜報兵に対して、青年はそう呟き返すと、己の拳を固く握りしめた。


彼らの会話と、冷たい外気に晒されて、ケイスケは目を覚ます。

自身を抱えているその人物を見上げると、驚きと恐怖で息をのんだ。


「と、トゥワイス……?!」


すると、その青年はケイスケを見下ろすと、クスクスと笑う。


「やぁ、初めまして。 こういう扱いは不本意だろうけれど、今は許して欲しいね。

 ボクの名前はブルー。 ケイスケ……君を、訳あって助けにやって来た者さ」